『超かぐや姫!』音楽創作ノート ⑤ 一フレーム単位の現場で
※この連載には、Netflix映画『超かぐや姫!』本編の内容に関する記述が含まれます。これから本編をご覧になる予定の方は、鑑賞後にお読みいただくことをおすすめします。
前回は、フィルムスコアリングという手法が何をもたらすのかについて書きました。今回は、その手法を、実際の現場でどう実践したか——いくつかの楽曲のエピソードとともに書きます。
一フレーム単位で音を合わせる、と前回書きました。
言葉にすると一行ですが、実際は、同じ場面を何十回、何百回と見ては、コンマ数秒の単位で音を置き直す、という地味な繰り返しです。その繰り返しの中で、忘れられない瞬間がいくつかありました。今日は、そうした現場の話を、いくつか書いておきたいと思います。
「OPENING ACT@TSUKUYOMI」——映像が変わるということ
まず、冒頭で流れるこの曲から。
本作の重要な舞台となる「ツクヨミ」が断片的に描かれる場面で、音の全体像をつかむためにも、劇伴制作は、ここから書き始めました。まだ色もあまり入っていない、線画をつないだ映像(Vコンテ)を見ながら、イメージをふくらませていきます。制作用の資料には「雅じゃないツクヨミ」と書かれていて、どんな音楽が合うかは、監督からアイデアを求められました。
冒頭は、ヤチヨのモノローグから始まります。
「今は昔、、、あれれっ?、、ではなくて」
子どもの頃に読んだ昔話の出だしかと思わせて、すぐに近未来の描写へと変わっていく。そんな演出だったので、音楽もその流れを汲むことにしました。
ところが、この場面は、一度書き上げたあとで、尺(長さ)が大幅に変わることになりました。冒頭の、雅楽から近未来の音へと移る部分だけを残して、あとは一旦、全部捨てることにしました。
このとき、すぐ書き直しには入らず、しばらく様子を見ることにしました。冒頭が変わるということは、おそらく作品の内側で、何か大きな化学変化が起きている。そう感じたからです。
その変化は、かぐやが電線を辿って降りてくる場面にも、はっきり現れました。
今、楽曲「Remember」が流れている前半部分。当初は、ここに私が劇伴を書いていました。それを引いて、「Remember」に場を譲った形です。映像があちこちで少しずつ変わり、それに合わせて音楽の配置も変わっていく。これは、本作全体の方向性が、現場のすり合わせの中で、少しずつ定まってきたことの、ひとつの表れだったと思います。
実際、最初に書いたオープニングも、「Remember」の場面の曲も、もっと抽象的で、幻想的でした。完成版では、オープニングは、エンタメ感の強い、アクション要素も入った映像に合わせる形になりました。これらのエピソードは、本作が「最初から答えがあって、それを当てに行く」のではなく、「作品を探りながら、現場で答えを見つけていく」という作り方だったことを、よく表しています。
「満ちる月のセレナーデ 〜八千年の旅」——指から生まれたメロディー
もうひとつ、何度か書き直しながら辿り着いた曲があります。「満ちる月のセレナーデ 〜八千年の旅」(サントラ収録Track 34)です。
この曲も、最初からこの形だったわけではありません。監督と、ああでもない、こうでもない、と対話を重ねながら、ようやくここに辿り着きました。
2分43秒のところで、あるメロディーが生まれました。
「書いた」というより、「手が、指が、勝手に動いた」という感覚に近い。気づいたら、そこに旋律があった。
面白いのは、ここからです。
あとでそのメロディーを思い返して、驚きました。たった一本のこの旋律の中に、かぐや、彩葉、ヤチヨ——三人それぞれのテーマの、核になる要素が、全部入っていたのです。狙って仕込んだものではありません。それでも、この作品の、この場面に、これほどふさわしい出来事はない。そう感じました。発見したときの感激は、今も鮮明に覚えています。
そして、この気づきをくれたのは、ファンの方々でした。「このメロディーは、一体何のメロディーなんだ?」というコメントをいくつも見かけて、「たしかにそうだよね」と私も思って見直したところ、気づいた次第です。みなさま、本当にありがとう。
ひらめきと、訓練の関係について
こういうことが起きると、創作とは何なのだろう、と考えてしまいます。
学生の頃、大学の教授が、こう言い放ったことがありました。
「モーツァルトやベートーヴェンは別格だ。あの人たちは構成なんて考えていない。作ったものが、勝手に構成になる。お前らが真似しようと思うな」
当時の私は、半分はなるほどと思い、半分引っかかりました。ひらめきだけで、あんな完璧な曲が、最初から完成形で出てくるのか。本当に?
その引っかかりに、後年、答えをくれた研究があります。
アラン・タイソンという研究者が、モーツァルトさんの自筆の楽譜を、徹底的に調べ上げた仕事です。紙の質、透かし、筆跡——そうした物証から、モーツァルトさんが実際にどう作曲していたかを突き止めました。
分かったのは、神話とは逆の姿でした。
モーツァルトさんは、世間で語られているイメージとは違って、山のように下書きを残していた。曲の途中で手が止まり、何ヶ月も、ときには何年も放置して、あとから再開することも、普通にあった。書き直しの跡も、譜面のあちこちに残っている。
つまり、あの天才も、書いては悩み、直していたのです。
もちろん、モーツァルトさんに途方もないひらめきがあったことは、間違いありません。ただ、ひらめきだけでは曲にならない。そのひらめきを受け止めて、形にする力——子どもの頃から積み上げた、膨大な訓練——があって初めて、あの音楽は生まれた。
ひらめきは、訓練の上にしか降りてこない。
これが、長い時間をかけて、私が辿り着いた実感です。もちろん、何事にも例外はある、とも付け加えておきます。
「満ちる月のセレナーデ」で起きた、指から生まれた旋律に三つのテーマが入っていた、というあの出来事も、たぶん同じことです。意識して仕込んだのではない。ただ、長年積み上げた訓練の先に、自分の制御を超えたところで、ああいうことが起きる。深く集中して、いわば「ゾーン」と呼ばれるような状態に入ったとき、指が勝手に最適な答えを選ぶ。それが、私にとっての訓練の成果であり、技術というものへの、ひとつの答えです。
監督と「チャンネルを合わせる」ということ
山下監督もまた、何でも理屈で進める方ではなく、思いつきを大切にされる方だと、折に触れて感じてきました。私も、まったく同じです。
ひらめきが訪れる状態というのは、簡単に言えば、自分の調子が整っている、ということでもあります。ただ、その道筋は、人によって違う。だから、元気でさえあれば誰でもひらめける、というものでもありません。
だからこそ、こうした共同作業の場では、相手の「チャンネル」をよく見て、常に調整しながら取り組む。これが、決定的に大事になります。
監督と食事をしながら。映像を一緒に見ながら。メールやチャットで言葉を交わしながら。そうしたすり合わせのすべてが、お互いのチャンネルを、少しずつ合わせていく作業でした。「金太郎飴」という監督の言葉も、私の中の「添え物にしない」という思いも、そのすり合わせを通じて、フィルムスコアリングという手法の中で出会いました。
「OPENING ACT@TSUKUYOMI」の書き直しも、「満ちる月のセレナーデ」の到達も、そのすり合わせの時間がなければ、生まれませんでした。一フレーム単位という、細かく精密な作業。その根っこにあるのは、こうした人と人とのチャンネル合わせなのだと、振り返って思います。
次回は、楽曲のタイトルについて書きます。私にとって、曲名を付けることは、もうひとつの創作でした。