モーツァルトの“ラ”から導き出された不文律の生と死と変容 『ミュージコフィリア 音楽嗜好症』オリヴァー・サックス氏著 大田直子氏訳 を読んで(第3節)

● 第3節 受け入られた死、そして変容へ

 ”ピリオド奏法”のような概念が生まれた原因を端的に言えば、時代が新しい音楽を求めたからではないかと思う。過去に遡ると言う行為に額面通りの説明を求めれば、大抵の場合、そこに”新しさ”は見出されないが、人類が繰り返して来た反語的道程に汲みすれば、”新しい”「概念」の成立を古きに求める方法論の蓋然性が極めて高いと言うことは、歴史を紐解けば直ぐに理解できる。私たちはそうやって進化して行くことを、遺伝子に義務付けられている、或いは、霊的に言えば、魂が求道している、とも言えるかもしれない。例えば、古いものの良さを活かしながら新しい感性を取り入れて作り直す”リノベーション”の考え方の根っこは、どちらにせよ、我々人間に施されたシステムの動力源とも例えられる其れに求められ、行為そのものが意義を成すセンテンスを表し、”変容”を示唆している。根付きつつある行為をアートとの親和性によって高めた「家プロジェクト」(香川県)や、「木屋旅館」(愛媛県)などは特筆されるべき事例である。又、多分野に渡り才覚を発揮し続けている演出家の三谷幸喜氏が、チェーホフの「桜の園」や、文楽作品「曾根崎心中(三谷作品では”其礼成心中”)」などの古典・伝統芸能と呼ばれるものの演出を手掛けるに至ったのは、多聞に彼のアヴァンギャルドに芽吹きを期待した証のような出来事であることに疑いの余地はなく、此れも又、”変容”を促す冥応に違いない。

人類不変の営みとして目を向けてみれば、作品は作者が天に召されたあとも、”もの言わぬ戦慄”となって半永久的に残る。「生」は「死」と表裏一体であり、「生」を受けた瞬間、私たちはその存在に「死」をも内包し、「ヒト」の称号を得る(「ヒト」の語源には諸説有り、新井白石氏著の語学書『東雅』や、大槻文彦氏著の国語辞書『大言海』に拠れば、「ヒ(霊)のト(止)まる所の意」とある)。ヒ(霊)によって因縁づけられた遺伝子は、私たちが「人間」である以上、個々の人生に逐一働きかけ続ける普遍の基礎定数なのである。又、魂の求める道は果てしなく永らえるものであることからも想起させられる。その抗い難き因縁に絡めれば、死が肉体と言う名の衣と袂を分かち求め行く姿が、回り燈籠の中に薄らと浮かび上がってくる。闇の中で残り香のようにト(止)まった炎だけがくっついたり離れたりしている様子を見ると、縁たる縁を繋ぎ変えられながら歩み及んでいる人類を制し、星の運行までをも御する存在の深意までもが、俄に、厳かに顕現し、明らめる。

最後に、大好きな映画監督であるジャン・リュック・ゴダールが、アルフレッド・ヒッチコックの『間違えられた男』(1956年公開 アメリカ映画)を評した書簡を引用して、今後の「古楽」の在り方について考えてみたい。(以下、黄色:筑摩書房『ゴダール全評論・全発言1 1950-1967』p.194-より)。

 「筋立ての骨組みを背景においやっているのは、ときどき不意に、それらの効果の明白な美をよくあらわにするためである。

曰く、意識的に多用された《表層的な》効果純粋に肉体的な様相を追ったカメラのこうした途方もない動きーは、決して重要な場面ではなく、つなぎの部分において遣われている。ここでゴダールが実に手際良く語るのは洗練された「様式美」についてであり、現代に於いて、あらゆる分野の芸術家にとって緊要な命題であると感じる。あらゆる芸術の多くは過去の歴史をなくして語れない、と言うより不可分の関係にあり、必ず何かがどこかで繋がっているものである。様式美は長い時を掛けて醸成された手法の内にあって、芸に身を置く者であれば、其の正体を知っておいて損はないし、飼い馴らしておく必要さえある。キワモノ扱いされていたのも今は昔、「古楽」もその一つになりつつあるのだ。現に一人の奏者が、モダン楽器だけではなく、古楽器も扱うと言うケースはよく見る。いつしか、モダン奏法と比較してどちらが上か下かの論争もなくなり、等しく音楽家の面前に差し出された表現方法の可能性の一つとして、「古楽」は当たり前のものとなっているようだ。

2012年に東京の銀座にて世界初演を行った『愛の告白』(詩、作編曲:コーニッシュ)では、独立したレチタティーボとアリアを伴いながら、その音楽性はロックに通じるとして、バロック音楽の時代に誕生した「バロック・オペラ」に因んで命名した「バ・ロックオペラ」第1作目の劇作品である。作品の編成は、声楽+ピアノ+フルート+弦楽四重奏に加えて、シンセサイザー+コンピュータープログラミングを用いた。そして、フルートと弦楽四重奏には古楽に精通する奏者に演奏をお願いした(フルートには日フィルの遠藤剛史氏を、弦楽四重奏のトップにはバッハ・コレギウム・ジャパンのコンサートミストレスの高田あずみ氏)。既にオペラは現代に至るまでにレチタティーボとアリアの区別さえも混濁するような進化を遂げているが、ここで敢えて私がバロックを選んだ理由は言うまでもなく、その「効果の明白な美」を表す為にである。古いものから新しいものまで多様に取り入れたが為に、単なるデクパージュと成らぬ様に練り上げることに腐心した本作は、新しい響きを模索した作品であり、劇作品と言うスタイルも相俟ってか、その可能性は無限に広がっていると感じる。多様な可能性が眼前に広がり、何が現出して来るのか分からないのが劇作品の魅力であり、又、怪異でもある。その中で、自分が追究して行く一つの方向性が見出せたと思っている。あれから2年が経ち、今夏、第2作目となる『信徒右近』を書き上げた。来年没後400年となる高山右近を題材にした作品であり、お披露目を目論んでいる所である。

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