モーツァルトの“ラ”から導き出された不文律の生と死と変容 『ミュージコフィリア 音楽嗜好症』オリヴァー・サックス氏著 大田直子氏訳 を読んで(第2節)

● 第2節 古き馨香の素描

机上の空論を繰り広げていても空しいだけなので、以上を踏まえた上で、”実験”してみることにした。お題として選んだ曲は、モーツァルトの傑作の一つ、交響曲第41番『ジュピター』である。音源をコンピュータに取り込んで、モーツァルトが使っていたとされる音叉のピッチ(A=421.6kHz)まで下げてみる(元の音源をA=442kHzだとして、おおよその値を計算して調整)。更に、前節でも触れた様に、今回の実験では、完全なる主観に於いて、テンポも「少し遅く」してみる。するとどうだろう、元の演奏からは決して感じる事の出来なかった何とも言えない味わい深い音楽が聞こえて来た。その瞬間、モーツァルトの目を通して見たその時代の失われた音が見えているのだ、と言う気がして来るから、尚面白い。勿論、それがその時代の音だと言う確固たる証拠は一切ないのだが、少なくとも、私自身の琴線に触れたことについて、一切の異論はない。

再現を試みた『ジュピター』と元の演奏を比較すると、現代の演奏はもっとサラッとしていて、鋭いのだと感じる。ここで行った方法は決して正確ではないが、聞こえて来る音楽に耳を傾けながら、ピリオド奏法とは果たして現代に於いて如何なる立ち位置を得たのだろうか、と言う疑問が脳裏を過り始めた。このような演奏法は先にも述べた通り、限定的に有効であり、古典が古典たらしめる意義をも含めての楽しみに留まり、その手法それ自体が温故知新として“新しい”ものと成り得るとは余り思えない。タイムマシンが発明されるか、過去の音楽家たちと会話が出来ない限り、想像の域を出る事はなく、あくまでも我々後世の者に許された行為は、”再創造”だと言われて来た。それさえも”アート的包括”によって、”現代音楽”に組み込まれる事例などは幾度となく目にして来たように思うが、彼自身は懐古趣味に過ぎないことに変わりはなく、作者の扱い方次第となる。などと書き連ねて行くと、ピリオド奏法に対して余り良くない思いを抱いているかのように聞こえるかもしれないが、決してそうではない。その証拠に、数年前にサントリーホールで聴いた「バッハ・コレギウム・ジャパン」の演奏による“音”は、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。モダン楽器による演奏と比べて音楽の放つ”気”が異なり、同じ”静謐”を表すフレーズ一つ一つの息差しを感取してみても、成分量の割合が明らかに違うのだ。一つ一つの音の玉が含有する水分量が現代よりも少なめで、時にホコリっぽい匂いさえして(決して悪口ではない)、懐かしさと郷愁が漂う。既に「年月」と言う、我々の与(あずか)り知らぬ所で組成されたと思われる”自律した機関”が醸成した薫香に拠るのかもしれないが、当時の街の様子や人の話す言葉や気風さえも感じられるようだった。彼らの音を思い出せば、“ピリオド奏法”の意義は十分に感じられるし、自分達のルーツを容易に知ることが出来るツールでありメソッドなのだと理解出来る。

>第3節へつづく

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