モーツァルトの“ラ”から導き出された不文律の生と死と変容 『ミュージコフィリア 音楽嗜好症』オリヴァー・サックス氏著 大田直子氏訳 を読んで(第1節)

● 第1節 時間感覚の趨勢とは如何に

 「絶対音感のある人にとっての楽曲の移調は、まちがった色で絵を描くのに似ているかもしれない。」

 「ということは、モーツァルトにとって、特定の調で描かれた作品には固有の特性があり、移調されると同じ作品ではないことになる。」

これは著者本人の言葉ではなく、著者に寄せられた手紙からの転載である。

 映画『アマデウス』の中でモーツァルトが得意の即興演奏を興じていたように、自身の曲を自在に調を変えて遊んだりしないはずがないと想像するに容易い事を考えると、上記の言葉は些か神格化された文言に聴こえなくもないが、確かに作品の調性と言うものは作曲家が吟味して選び、一度発表された作品は、原調(オリジナル版のキー)以外の調である事を寄せ付けないと言う捉え方に意味があるとすれば、その後に作曲家本人が移調を許諾する事と、演奏家の都合で移調する意味は当然ながら違って来るのかもしれない。

 「今日のオーケストラが出す440ヘルツのラは、モーツァルトのオーケストラのラよりもおよそ半音高いという事実はどうなのでしょう。」

これはつまり、同じ色(調性)で塗った(奏でた)つもりでも、パレット(調律)が違えば、同じ絵(音楽)には(厳密には)見えない(聴こえていない)と言うことである。ちなみに、この話題について当著が別段細密に取り上げている訳ではないし、そもそも其れ自体新しい話ではないことを附しておく。先ず、基準ピッチと言うものがここ2、300年の間に紆余曲折を経て、随分と高くなってしまったと言う流れがある。つまり私たちがモーツァルトの作品を現代の基準ピッチで調律された楽器で演奏すると、当時の演奏より半音も全体の音程が高くなってしまうのである。これは当時の楽器(古楽器、又はピリオド楽器などと呼ばれる)と当時の奏法(ピリオド奏法)を採用する事でほぼ解決されたと言う認識が為されてからは久しい。即ち、作曲家が作品を書いた当時の音を再現すると言う試みであり、其の様な演奏会が現在では世界中で頻繁に開かれている。弦楽器などに於いては楽器の構え方までもが異なり、更にテンポも今より速めに設定されるらしいのだが、後者については”今更ながら”奇妙な気がしてならない。モダン楽器(古楽器に対して20世紀頃から定着して来た楽器をこう呼ぶ)で演奏する行為と比較して、異なる様々な要素が相俟った結果だとしても、テンポが速いと、逆に現代風の演奏に聴こえてしまわないのだろうか?そう思うのは、現代よりも当時の人たちの時間感覚は相対的に遅いような気がしてならない、と言う極(ごく)私的な、漠として時が止まったような感覚によって得られた体感に起因している。

ピリオド奏法を確立した立役者の一人、指揮者のアーノンクールが自身の著書で「モンテヴェルディ、バッハ、モーツァルトのテンポを正確に定めることは難しい」と言うような種のことを書いている。元々、種々のテンポにまつわる言葉の概念は時代と共に変化して来た。同著ではその象徴として「アンダンテ」のテンポについて論じており、現代では「遅い」イメージが定着しているが、18世紀の様式では現在の認識よりも大分「速い」とされていたと言う。それでもベートーヴェン以前にメトロノームは存在せず(メトロノームを最初に遣ったのはベートーヴェン)、記載されたあらゆる速度標語によって組み立てられた文脈を真ん中に据えながら、作曲家本人又はその弟子などの言葉が遺(のこ)っていれば耳を傾け、想像するより他ない。時代の狭間を行き来しながらアップデートされて来た言葉を正しく想像すると言う試みは、前述の例を取ってみても単に相対的に「速い」指示が為されているものを結果として歪曲している側面があるのではないか、或いは単なる字面に惑わされている部分があるのではないか、と推察せずにはいられない。

過去の事物に触れた時、未だ嘗て誰も足を踏み入れたことのない場所に訪れた錯覚に陥った経験はないだろうか? 私たちは無意識の内に避けているか、意識的に近づく。前者の場合、何らかの力学が働いてしまい、誘(いざな)われることがたまにある。海上にぽつんと浮かんでいるような孤島の密林へと迷い込むような感覚である。恣意的ではなく意識を預け埋没せんとする行為は、忘我の境地に至る為に、太古より多くの人々があらゆる手法であり、試みて来たある種の儀式的慣習である。”タイムトラベル”と”創作の泉”の入口は異なる場所にあるが、立入の許可を得る切っ掛けには等しく必要なものは、”静寂”である。”静寂”に極めて近くに在るか、或いはそのものと化すかが鍵と為る。

作曲と言う行為も泉からの恩恵に与るべく、同様に密林の中で玉虫色の輝きを湖水の中に追い求め、掬い取っては倒錯的に認めんとして、原石を磨(と)ぎ、紡ぐのだ。インスピレーションの源流とも言うべき湖水に広がる波状の曲線は、いわば時代のうねりをも秘めている。後世に語り継がれるどの時代の名作にも、その軌道を辿って来たと思われる跡が見て取れる。音楽は様々な記憶を伴う不思議な性質を備えている。何十年も前に聞いた音楽を耳にすると、当時の思いや映像、時に匂いさえも伴う記憶が甦ることがある。多くの人が共有して来た経験則であると思われ、分析すると途端につまらない話に聞こえて来るかもしれないが、調性にしろテンポにしろ、これらの記憶を呼び覚ます為に欠かせない要素だと言うことには違いない。又、個々人の感覚の話になれば千差万別ではあるものの、大きなマスとして捉えてみれば、その流れは時代が為す共通の感覚を必ずや片手にして、先導しているのものである。俄に過ぎて行く流行りやブームなど、その流れは過去と比較しても著しく速いと感じるのだが、いかがなものか?

>第2節へつづく

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